この秋、東京富士美術館で開催中されているのは、
“遥かなるルネサンス 天正遣欧少年使節がたどったイタリア” という展覧会。
略して、「はるルネ展」 です。
(注:館内の写真撮影は、特別に許可を頂いております。)
「はるルネ展」 の主役となるのは、
伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノの4人。
いわゆる、天正遣欧少年使節です。
日本人として初めて、イタリアのルネサンス文化を目にした彼らの足跡を辿りながら、
彼らが実際に目にしたであろう、目にしたかもしれないルネサンス美術の作品を紹介する展覧会です。
歴史の授業などで、天正遣欧少年使節の存在はさすがに知ってはいましたが。
改めて考えてみると、「どれくらいの期間ヨーロッパに行っていたのか?」
「ヨーロッパのどのあたりを巡ったのか?」「そもそも、ヨーロッパで何をしていたのか?」
など、実は、いろいろと知らないことだらけでした。
ちなみに、上の3つの疑問に対する答えは、以下の通り。
「出発から帰国までは、約8年半。」
「イタリアのリヴォルノに到着し、フィレンツェ、ローマ、ヴェネツィアなどを巡った」
「当時のローマ教皇、グレゴリウス13世に謁見した (ただし、中浦ジュリアンは急病で欠席)」
ちなみに、遠い日本から、数々の苦難を乗り越えてやってきた4人の少年は、
メディチ家をはじめ、訪れたイタリアの各国で熱烈な歓迎を受けたそうです。
その人気ゆえに、時には、記念メダルが発行されたほど。
また、ヴェネツィアでは、当時の大人気画家が彼らの絵を描いたそうです。
それが、2014年に発見され、話題となったこちらの一枚。
ドメニコ・ティントレット 《伊東マンショの肖像》 1545年 トリヴルツィオ財団
ヨーロッパ人が初めて日本人をモデルに描いた絵と考えられています。
キャンバスに対して、人物がパツパツだなぁと思っていたら、
おそらく4人が描かれたものの一部を切り取ったものであろうとのこと。
いつの日か残りの3人も見つかるといいですね。
何はともあれ、天正遣欧少年使節がそんなにも活躍していたとは。
過酷な旅の末に、ヨーロッパの地へ。
その結果、アイドル的な人気を確立。
まるで猿岩石のようです。
余談ですが、帰国した天正遣欧少年使節の4人には、
渡欧中に、豊臣秀吉によって伴天連追放令が発令されていたこともあり、
決して幸福とは言えない人生が待ち受けていたそうです。
まるで猿岩石の森脇のようです。
さてさて、展覧会にはウフィツィ美術館やルーブル美術館、
さらには、ヴァチカン教皇庁図書館など、各地から貴重な作品の数々が来日しています。
芸術の秋に相応しく、なんとも華やかな展覧会でした。
その中でも特に見逃せないのが、今回が初来日となる 《ビア・デ・メディチの肖像》 です。
ブロンズィーノ(アーニョロ・ディ・コジモ・トーリ) 《ビア・デ・メディチの肖像》 1542年頃 ウフィツィ美術館 Antonio Quattrone, Firenze
こちらは、メディチ家のお抱え画家ブロンズィーノの代表作。
病気のため幼くして亡くなったコジモ1世の愛娘ビアを、その死の直後に描いたという一枚です。
その事実を知ってから向き合うと、何とも切なくやるせない気持ちになります。
儚げな笑みを浮かべているので、なおさら胸が苦しくなります。
背景に使われているのは、ラピスラズリとのこと。
高貴な青に包まれているのが、少しだけ救いに感じられました。
そうそう、メディチ家と言えば、コジモ1世の息子フランチェスコ1世・デ・メディチと、
その2度目の妃であるビアンカ・カッペッロの肖像画もウフィツィ美術館から来日しています。
左が、ウフィツィ美術館所蔵の 《ビアンカ・カッペッロの肖像》 。
右は、東京富士美術館が所蔵する 《ビアンカ・カッペッロの肖像》。
同一人物とは思えないくらい顔が違います。
右は美人ですが、左は・・・・・。
小顔ローラーの使用前と使用後?
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遥かなるルネサンス
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