今年2019年は、国際的に活躍した銅版画家・浜口陽三の生誕110年という節目の年。
それを記念して、現在、彼の個人美術館であるミュゼ浜口陽三ヤマサコレクションでは、
“生誕110年 浜口陽三銅版画展 憧れ―伊豆と浜口陽三―” という展覧会が開催されています。
(注:館内の写真撮影は、特別に許可を得ております)
こちらは、展覧会のサブタイトルにあるように、
「伊豆と浜口陽三」 をキーワードにした展覧会です。
和歌山県に生まれた浜口陽三。
幼少期は、浜田家と関わりの深い千葉県銚子市で過ごし、
東京美術学校 (現・東京藝術大学) 中退後はパリへと渡航。
版画家として名声を得てからは、パリやブラジル、サンフランシスコで過ごしました。
・・・・・と、これらの情報はすべて、
浜口陽三のWikipedia欄に記載されていますが。
伊豆という地名に関しては、一切彼のWikipedia欄に登場していません。
しかし、Wikipediaもスルーする伊豆こそが、浜口陽三にとっての 「アナザースカイ」 だった?!
そんな新事実が明らかになる展覧会です。
東京美術学校中退後にパリへと渡航した浜口陽三は、その後、10年ほどパリに滞在しました。
しかし、第二次世界大戦を機に帰国。
フランス語が話せるという理由で、陸軍の通訳として、
フランス領だったラオスへと同行し、そこでマラリアに感染してしまいました。
命からがら日本へ帰国した浜口は、伊豆半島にある蓮台寺温泉へ。
病気療養のために約2年ほど滞在し、
その飾らない人柄で、地元の人々と親しく交流したのだそうです。
展覧会の冒頭で紹介されているのは、そんな蓮台寺滞在時代の貴重な作品の数々。
時に、細密で写実的な鉛筆画を描いたり、
時に、どことなくモンパルナスの画家の絵を彷彿とさせるパステル画を描いたり、
時に、どことなく岡崎京子の絵を彷彿とさせる90年代風のスタイリッシュな油彩画を描いたり、
さらには、これまで描いたことがなかった日本画にも挑戦してみたり。
蓮台寺の地にて、アーティストとして再起を図ろうとした浜口。
マラリアで療養していた期間を取り戻すべく、
実に貪欲なまでに、さまざまな作風にチャレンジしていたのです。
そんな試行錯誤の日々の中で、ついに出逢った表現が、銅版画。
つまり、蓮台寺は、国際的銅版画家・浜口陽三の誕生の地。
もし蓮台寺に滞在していなければ、
浜口陽三は美術史に名を残していなかったのかもしれないのです。
事実、パリで国際的に成功した後も、浜口は伊豆の地をたびたび訪れていたのだそう。
また、蓮台寺滞在時代に親交を深めた村上三郎氏に、浜口はパリから作品を送り続けていたのだそう。
その数、実に70点以上。
そんな村上氏のコレクションをもとに、
1980年に、伊豆の地にて、浜口陽三の展覧会が3つも開催されたのだとか。
そのうちの一つが、池田20世紀美術館で開催された浜口の回顧展 “浜口陽三名作展” です。
浜口の回顧展は、これまでに何度も日本で開催されていますが。
実は何を隠そう、この池田20世紀美術館での展覧会こそが、日本初となる浜口陽三の回顧展。
そう、伊豆は、国際的銅版画家・浜口陽三の誕生の地であり、
国際的銅版画家・浜口陽三の回顧展の誕生の地でもあったのです!
若き日の浜口のチャレンジ精神にもグッときましたし、もちろん彼の作品にもグッときたのですが。
それ以上に、これまで知られていなかった浜口に関する新事実、
それも、重要な事実を調べ上げた学芸員さんのプロフェッショナルぶりにグッとくる展覧会でした。
さてさて。
そんな浅見光彦なみの調査力を誇る (?) 学芸員さんの手にかかれば、
浜口陽三の 《雲》 という作品に隠されたとある意外な真実も、白日のもとに。
一見すると、水平線に雲が浮かんでいる風景に見えますが。
実は、海に見える部分は、もともとアスパラガスを描いたものだったのだとか。
制作している途中で、アスパラガスから海景へと変わってしまったのだそう。
確かに、言われてみれば、アスパラガスの袴のようなものが見て取れます。海なのに。
とはいえ、もともとアスパラガスだったとすると、さすがに長すぎる気もします。
串揚げにしたら、だいぶ食べ応えがありそうです。
ちなみに、今回出展されていた中で、個人的に印象的だったのは、
蓮台寺から再びパリへと渡ったその直後に制作したという、こちらの一枚。
《スペイン風油入れ》 です。
作品がどうこうではなく (←?)、スペイン風油入れなるものに興味津々。
なぜ二股なのか?
丸い底で自立するのか?
油をどこから足すのか?
油入れでさえ、こんな奇妙な形状。
スペインからダリやガウディが生まれたのも、妙に納得です。
1位を目指して、ランキングに挑戦中。
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それを記念して、現在、彼の個人美術館であるミュゼ浜口陽三ヤマサコレクションでは、
“生誕110年 浜口陽三銅版画展 憧れ―伊豆と浜口陽三―” という展覧会が開催されています。
(注:館内の写真撮影は、特別に許可を得ております)
こちらは、展覧会のサブタイトルにあるように、
「伊豆と浜口陽三」 をキーワードにした展覧会です。
和歌山県に生まれた浜口陽三。
幼少期は、浜田家と関わりの深い千葉県銚子市で過ごし、
東京美術学校 (現・東京藝術大学) 中退後はパリへと渡航。
版画家として名声を得てからは、パリやブラジル、サンフランシスコで過ごしました。
・・・・・と、これらの情報はすべて、
浜口陽三のWikipedia欄に記載されていますが。
伊豆という地名に関しては、一切彼のWikipedia欄に登場していません。
しかし、Wikipediaもスルーする伊豆こそが、浜口陽三にとっての 「アナザースカイ」 だった?!
そんな新事実が明らかになる展覧会です。
東京美術学校中退後にパリへと渡航した浜口陽三は、その後、10年ほどパリに滞在しました。
しかし、第二次世界大戦を機に帰国。
フランス語が話せるという理由で、陸軍の通訳として、
フランス領だったラオスへと同行し、そこでマラリアに感染してしまいました。
命からがら日本へ帰国した浜口は、伊豆半島にある蓮台寺温泉へ。
病気療養のために約2年ほど滞在し、
その飾らない人柄で、地元の人々と親しく交流したのだそうです。
展覧会の冒頭で紹介されているのは、そんな蓮台寺滞在時代の貴重な作品の数々。
時に、細密で写実的な鉛筆画を描いたり、
時に、どことなくモンパルナスの画家の絵を彷彿とさせるパステル画を描いたり、
時に、どことなく岡崎京子の絵を彷彿とさせる90年代風のスタイリッシュな油彩画を描いたり、
さらには、これまで描いたことがなかった日本画にも挑戦してみたり。
蓮台寺の地にて、アーティストとして再起を図ろうとした浜口。
マラリアで療養していた期間を取り戻すべく、
実に貪欲なまでに、さまざまな作風にチャレンジしていたのです。
そんな試行錯誤の日々の中で、ついに出逢った表現が、銅版画。
つまり、蓮台寺は、国際的銅版画家・浜口陽三の誕生の地。
もし蓮台寺に滞在していなければ、
浜口陽三は美術史に名を残していなかったのかもしれないのです。
事実、パリで国際的に成功した後も、浜口は伊豆の地をたびたび訪れていたのだそう。
また、蓮台寺滞在時代に親交を深めた村上三郎氏に、浜口はパリから作品を送り続けていたのだそう。
その数、実に70点以上。
そんな村上氏のコレクションをもとに、
1980年に、伊豆の地にて、浜口陽三の展覧会が3つも開催されたのだとか。
そのうちの一つが、池田20世紀美術館で開催された浜口の回顧展 “浜口陽三名作展” です。
浜口の回顧展は、これまでに何度も日本で開催されていますが。
実は何を隠そう、この池田20世紀美術館での展覧会こそが、日本初となる浜口陽三の回顧展。
そう、伊豆は、国際的銅版画家・浜口陽三の誕生の地であり、
国際的銅版画家・浜口陽三の回顧展の誕生の地でもあったのです!
若き日の浜口のチャレンジ精神にもグッときましたし、もちろん彼の作品にもグッときたのですが。
それ以上に、これまで知られていなかった浜口に関する新事実、
それも、重要な事実を調べ上げた学芸員さんのプロフェッショナルぶりにグッとくる展覧会でした。
さてさて。
そんな浅見光彦なみの調査力を誇る (?) 学芸員さんの手にかかれば、
浜口陽三の 《雲》 という作品に隠されたとある意外な真実も、白日のもとに。
一見すると、水平線に雲が浮かんでいる風景に見えますが。
実は、海に見える部分は、もともとアスパラガスを描いたものだったのだとか。
制作している途中で、アスパラガスから海景へと変わってしまったのだそう。
確かに、言われてみれば、アスパラガスの袴のようなものが見て取れます。海なのに。
とはいえ、もともとアスパラガスだったとすると、さすがに長すぎる気もします。
串揚げにしたら、だいぶ食べ応えがありそうです。
ちなみに、今回出展されていた中で、個人的に印象的だったのは、
蓮台寺から再びパリへと渡ったその直後に制作したという、こちらの一枚。
《スペイン風油入れ》 です。
作品がどうこうではなく (←?)、スペイン風油入れなるものに興味津々。
なぜ二股なのか?
丸い底で自立するのか?
油をどこから足すのか?
油入れでさえ、こんな奇妙な形状。
スペインからダリやガウディが生まれたのも、妙に納得です。
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