もしも、芸術家たちが漫才をしたら・・・
こんな感じのネタを披露するのかもしれません。
それでは、皆様、どうぞ芸術漫才をお楽しみください!
2人 「はいどーも、尾形兄弟です!よろしくお願いします」
光琳 「まぁ、僕らこうやってね、兄弟で芸術家をやらせてもらってます。
この僕の隣にいるのがね、弟の乾山 [1] です。
ほら、乾山も自己紹介しないと。『乾山ですよー』 って。『こんにちはー』 って」
乾山 「いや、わしのこと何歳やと思ってんねん!
アンタの6コ下やぞ。自分の口で言えるわ」
光琳 「コイツは陶芸家をやってましてね。
だからなんでしょうね。土を捏ねるだけでなく、すぐこうやって駄々も捏ねるんですよ」
乾山 「駄々って言うな!正当な指摘や」
光琳 「それから、僕の名前は、光琳 [2] と言いましてね。
業界の人からは、『おがたのお兄さん』 って呼ばれています」
乾山 「誰が言うてんねん」
光琳 「僕は、主に絵画や “ま~きえっ” をやっています」
乾山 「蒔絵や!“ま~きのっ” みたく言うな」
光琳 「今でこそ、僕は日本美術界のスーパースターですけれども」
乾山 「自分で言うんかい」
光琳 「実は、最初から芸術家になりたかったわけじゃないんですよ」
乾山 「まぁ、でも、これはほんまの話ですわ」
光琳 「もともと僕らの実家は、超が付くほどのお金持ちでしてね」
乾山 「呉服商 [3] なんです」
光琳 「特に働く必要が無いんでね、ずっとニートみたいな生活をしてたんですけど。
30歳くらいの時ですかね。親父が亡くなったんですよ。
それをきっかけに働くようになった・・・と思うでしょ?
遺産がたんまりとあったんでね。まだまだニートを続けてやりましたよ」
乾山 「典型的なダメ人間やな!」
光琳 「ところがね、そんなニート生活をずっと続けていたら、スゴいことに気がつきまして」
乾山 「何に気づいてん?」
光琳 「お金ってね、使ったら無くなるんですよ」
乾山 「当たり前やろ!30代まで知らんかったんかい」
光琳 「しかもね。お金が無くなっても、
さらに、モノを買ったり、お酒飲んだりするとね。
借金っていうのが増えるんですよ。皆さん、知ってました?」
乾山 「全員知ってるわ!てか、あん時、わしからもお金借りたよな」
光琳 「そうそう。(客席に向かって)コイツ、ひどいんですよ。
しばらくしたら、『金返せ』 って言ってきまして」
乾山 「そりゃ言うやろ」
光琳 「その上、『返さないなら、仕事しろ』 って。鬼か、お前は!」
乾山 「どこがやねん!普通やないかい」
光琳 「それで、仕方ないんで、団扇に絵を描いて売ることにしたんですよ。内輪揉めだけに」
乾山 「しょーもな!」
光琳 「ともかく、そういうきっかけがあって、僕は芸術家になったわけです。
そしたら、まぁ、才能が止まらない!次から次に、名品を生み出しちゃって!」
乾山 「だから、何で自分で言うねん」
光琳 「西本願寺の依頼で描いた燕子花の絵 [4] あるでしょ?あれ、今じゃ日本の国宝ですよ」
乾山 「はいはい」
光琳 「弘前藩の津軽家のために描いた梅の絵 [5] あるでしょ?あれも、国宝」
乾山 「わかったわかった」
光琳 「『伊勢物語』 を題材にした蒔絵の硯箱 [6] も・・・
乾山 「国宝なんやろ!いつまで自慢を続けんねん!」
光琳 「なんてったって、僕に影響を受けた芸術家はたくさんいますからね。
酒井抱一でしょ。横山大観でしょ。クリムトでしょ。ウォーホルでしょ。
あと、田中一光 [7] ね。もう、“どんだけ~” って感じですよね」
乾山 「そのIKKOやないわ!」
光琳 「それから、酒井抱一とか鈴木其一とか神坂雪佳とか、
特に僕をリスペクトしてくれてる芸術家をまとめて、何て言うか知ってます?
琳派 [8] ですよ。琳派。皆さんも聞いたことあるでしょ、琳派っていう言葉。
あの琳派の 『琳』 は、実は、光琳の 『琳』 なんですよ」
乾山 「もうええって」
光琳 「美術館なんか行くと、琳派って言葉、いっぱい見かけますからね。
本当、僕のおかげですよ」
乾山 「まだ続けんのかい」
光琳 「最近では、マッサージ屋なんかでも、よく見かけますよね」
乾山 「そのリンパちゃうわ!」
光琳 「あと、韓国料理屋でも、見かけるかなぁ」
乾山 「それ、キンパや!韓国風の海苔巻きやん。
そのすぐ調子乗るところ、昔からほんま変わらんよな。もういっぺん、あの絵観てこい!」
光琳 「あの絵?宗達さんの風神雷神の絵 [9] ?」
乾山 「せやせや」
光琳 「いやぁ、前にもお前に言われて、観に行ったことあるのよ。
あん時は、自分の才能ってまだまだだなぁって、だいぶ落ち込んだからね」
乾山 「たまには、謙虚になったらええやん」
光琳 「なんとかあの絵を超えたいと思って、僕も風神雷神の絵 [10] を描いてみたわけ」
乾山 「いや、そっくりやん!てか、まったく一緒やん!」
光琳 「うん。トレースしたからね」
乾山 「それはマズいやろ」
光琳 「そうかな?最近のデザイナーも、わりとやってると思うけど」
乾山 「んなことないわ!まぁ、ごく一部でそんなヤツもいるかもしれんけども」
光琳 「僕のようにトレースする人も、やっぱり琳派ってことになるんだろうね」
乾山 「なるわけないやろ!もうええわ!」
2人 「どうもありがとうございました」
[1] 尾形乾山(1663~1743)
京都生まれ。江戸時代中期の陶芸家。派手な性格の兄とは対照的に、内向的な性格だったそう。
晩年は、江戸に下り、入谷に住んだ。
ある時、乾山は江戸のウグイスの鳴き声は美しくないと嘆いたとある皇族の僧に命じられる。
そこで、京都より3500羽の美声のウグイスを取り寄せ、付近に放ったという。これが鶯谷の地名の由来である。
[2] 尾形光琳 (1658~1716)
元禄文化を代表する絵師。
性格も派手だが、女性関係も派手だったよう。
細井つねという女性に訴えられ、家と銀20枚で示談にしたという記録が残っている。
[3] 京都を代表する高級呉服商・雁金屋。
宮廷のファッションリーダーであった東福門院和子も御用達だった。
光琳の代で潰れる。
[4] 《燕子花図》 根津美術館所蔵。
五千円札のデザインに採用されていることでもお馴染み。
[5] 《紅白梅図》 MOA美術館所蔵。
向かって右側に描かれた紅梅が若者を、左側の白梅が老人を表しているという説もある。
[6] 《八橋蒔絵螺鈿硯箱》 東京国立博物館所蔵。
東京国立博物館のミュージアムショップでは、八橋蒔絵螺鈿硯箱缶入クッキーが販売されている。
クッキーは東京會館製。税込1080円。
[7] 田中一光 (1930~2002)
昭和期を代表するグラフィックデザイナー。
無印良品の概念の発案した一人で、亡くなるまでの20年余に渡りアートディレクターを務めた。
[8] 光琳派、尾形派、光悦派、宗達・光琳派など、
さまざまな名称が乱立していたが、昭和47年に東京国立博物館で開催された “琳派展” を機に、琳派に定着した。
[9] 俵屋宗達 《風神雷神図屏風》 仁和寺所蔵。
国宝。東京オリンピック・パラリンピックの500円記念硬貨にデザインが採用されたことでも話題。
[10] 尾形光琳 《風神雷神図屏風》 東京国立博物館所蔵。
重要文化財。酒井抱一は光琳をリスペクトするがあまり、その裏側に 《夏秋草図屏風》 を描いた。
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2人 「はいどーも、尾形兄弟です!よろしくお願いします」
光琳 「まぁ、僕らこうやってね、兄弟で芸術家をやらせてもらってます。
この僕の隣にいるのがね、弟の乾山 [1] です。
ほら、乾山も自己紹介しないと。『乾山ですよー』 って。『こんにちはー』 って」
乾山 「いや、わしのこと何歳やと思ってんねん!
アンタの6コ下やぞ。自分の口で言えるわ」
光琳 「コイツは陶芸家をやってましてね。
だからなんでしょうね。土を捏ねるだけでなく、すぐこうやって駄々も捏ねるんですよ」
乾山 「駄々って言うな!正当な指摘や」
光琳 「それから、僕の名前は、光琳 [2] と言いましてね。
業界の人からは、『おがたのお兄さん』 って呼ばれています」
乾山 「誰が言うてんねん」
光琳 「僕は、主に絵画や “ま~きえっ” をやっています」
乾山 「蒔絵や!“ま~きのっ” みたく言うな」
光琳 「今でこそ、僕は日本美術界のスーパースターですけれども」
乾山 「自分で言うんかい」
光琳 「実は、最初から芸術家になりたかったわけじゃないんですよ」
乾山 「まぁ、でも、これはほんまの話ですわ」
光琳 「もともと僕らの実家は、超が付くほどのお金持ちでしてね」
乾山 「呉服商 [3] なんです」
光琳 「特に働く必要が無いんでね、ずっとニートみたいな生活をしてたんですけど。
30歳くらいの時ですかね。親父が亡くなったんですよ。
それをきっかけに働くようになった・・・と思うでしょ?
遺産がたんまりとあったんでね。まだまだニートを続けてやりましたよ」
乾山 「典型的なダメ人間やな!」
光琳 「ところがね、そんなニート生活をずっと続けていたら、スゴいことに気がつきまして」
乾山 「何に気づいてん?」
光琳 「お金ってね、使ったら無くなるんですよ」
乾山 「当たり前やろ!30代まで知らんかったんかい」
光琳 「しかもね。お金が無くなっても、
さらに、モノを買ったり、お酒飲んだりするとね。
借金っていうのが増えるんですよ。皆さん、知ってました?」
乾山 「全員知ってるわ!てか、あん時、わしからもお金借りたよな」
光琳 「そうそう。(客席に向かって)コイツ、ひどいんですよ。
しばらくしたら、『金返せ』 って言ってきまして」
乾山 「そりゃ言うやろ」
光琳 「その上、『返さないなら、仕事しろ』 って。鬼か、お前は!」
乾山 「どこがやねん!普通やないかい」
光琳 「それで、仕方ないんで、団扇に絵を描いて売ることにしたんですよ。内輪揉めだけに」
乾山 「しょーもな!」
光琳 「ともかく、そういうきっかけがあって、僕は芸術家になったわけです。
そしたら、まぁ、才能が止まらない!次から次に、名品を生み出しちゃって!」
乾山 「だから、何で自分で言うねん」
光琳 「西本願寺の依頼で描いた燕子花の絵 [4] あるでしょ?あれ、今じゃ日本の国宝ですよ」
乾山 「はいはい」
光琳 「弘前藩の津軽家のために描いた梅の絵 [5] あるでしょ?あれも、国宝」
乾山 「わかったわかった」
光琳 「『伊勢物語』 を題材にした蒔絵の硯箱 [6] も・・・
乾山 「国宝なんやろ!いつまで自慢を続けんねん!」
光琳 「なんてったって、僕に影響を受けた芸術家はたくさんいますからね。
酒井抱一でしょ。横山大観でしょ。クリムトでしょ。ウォーホルでしょ。
あと、田中一光 [7] ね。もう、“どんだけ~” って感じですよね」
乾山 「そのIKKOやないわ!」
光琳 「それから、酒井抱一とか鈴木其一とか神坂雪佳とか、
特に僕をリスペクトしてくれてる芸術家をまとめて、何て言うか知ってます?
琳派 [8] ですよ。琳派。皆さんも聞いたことあるでしょ、琳派っていう言葉。
あの琳派の 『琳』 は、実は、光琳の 『琳』 なんですよ」
乾山 「もうええって」
光琳 「美術館なんか行くと、琳派って言葉、いっぱい見かけますからね。
本当、僕のおかげですよ」
乾山 「まだ続けんのかい」
光琳 「最近では、マッサージ屋なんかでも、よく見かけますよね」
乾山 「そのリンパちゃうわ!」
光琳 「あと、韓国料理屋でも、見かけるかなぁ」
乾山 「それ、キンパや!韓国風の海苔巻きやん。
そのすぐ調子乗るところ、昔からほんま変わらんよな。もういっぺん、あの絵観てこい!」
光琳 「あの絵?宗達さんの風神雷神の絵 [9] ?」
乾山 「せやせや」
光琳 「いやぁ、前にもお前に言われて、観に行ったことあるのよ。
あん時は、自分の才能ってまだまだだなぁって、だいぶ落ち込んだからね」
乾山 「たまには、謙虚になったらええやん」
光琳 「なんとかあの絵を超えたいと思って、僕も風神雷神の絵 [10] を描いてみたわけ」
乾山 「いや、そっくりやん!てか、まったく一緒やん!」
光琳 「うん。トレースしたからね」
乾山 「それはマズいやろ」
光琳 「そうかな?最近のデザイナーも、わりとやってると思うけど」
乾山 「んなことないわ!まぁ、ごく一部でそんなヤツもいるかもしれんけども」
光琳 「僕のようにトレースする人も、やっぱり琳派ってことになるんだろうね」
乾山 「なるわけないやろ!もうええわ!」
2人 「どうもありがとうございました」
[1] 尾形乾山(1663~1743)
京都生まれ。江戸時代中期の陶芸家。派手な性格の兄とは対照的に、内向的な性格だったそう。
晩年は、江戸に下り、入谷に住んだ。
ある時、乾山は江戸のウグイスの鳴き声は美しくないと嘆いたとある皇族の僧に命じられる。
そこで、京都より3500羽の美声のウグイスを取り寄せ、付近に放ったという。これが鶯谷の地名の由来である。
[2] 尾形光琳 (1658~1716)
元禄文化を代表する絵師。
性格も派手だが、女性関係も派手だったよう。
細井つねという女性に訴えられ、家と銀20枚で示談にしたという記録が残っている。
[3] 京都を代表する高級呉服商・雁金屋。
宮廷のファッションリーダーであった東福門院和子も御用達だった。
光琳の代で潰れる。
[4] 《燕子花図》 根津美術館所蔵。
五千円札のデザインに採用されていることでもお馴染み。
[5] 《紅白梅図》 MOA美術館所蔵。
向かって右側に描かれた紅梅が若者を、左側の白梅が老人を表しているという説もある。
[6] 《八橋蒔絵螺鈿硯箱》 東京国立博物館所蔵。
東京国立博物館のミュージアムショップでは、八橋蒔絵螺鈿硯箱缶入クッキーが販売されている。
クッキーは東京會館製。税込1080円。
[7] 田中一光 (1930~2002)
昭和期を代表するグラフィックデザイナー。
無印良品の概念の発案した一人で、亡くなるまでの20年余に渡りアートディレクターを務めた。
[8] 光琳派、尾形派、光悦派、宗達・光琳派など、
さまざまな名称が乱立していたが、昭和47年に東京国立博物館で開催された “琳派展” を機に、琳派に定着した。
[9] 俵屋宗達 《風神雷神図屏風》 仁和寺所蔵。
国宝。東京オリンピック・パラリンピックの500円記念硬貨にデザインが採用されたことでも話題。
[10] 尾形光琳 《風神雷神図屏風》 東京国立博物館所蔵。
重要文化財。酒井抱一は光琳をリスペクトするがあまり、その裏側に 《夏秋草図屏風》 を描いた。
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