練馬区美術館で現在開催中の展覧会、
“生誕140年記念 背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和” に行ってきました。
(注:館内の写真撮影は、特別に許可を得ております。)
こちらは、明治、大正、昭和と3つの時代を生きた画家、
津田青楓 (1880~1978) の没後初となる本格的な回顧展です。
正直なところ、この展覧会を通して、初めて津田青楓の名を知りました。
そんな僕が展覧会を観終えた直後の率直な感想は・・・・・
「何で今まで津田青楓の展覧会が開催されなかったんだ?!」
その一言に尽きます。
作品は面白い。
作風が何度も劇的に変化する。
そして、人生は波乱万丈。
こんなにもキャラが立っているのに、知られざる画家がまだ存在していただなんて!
掘り出し物を見つけたかのようで、テンションの上がる展覧会でした。
まずは図案化としてキャリアをスタートさせる青楓。
アールヌーヴォーの影響を受けながらも、
他の誰ともかぶらない独自のセンスが光る図案を多数発表していきます。
明治期の作品とは思えないほどに、洒脱なデザイン。
むしろ令和の今でも十分通用するのではないだろうか。
そう思って、ふと会場の上に目をやると、
青楓の図案の一部を組み合わせたバナーが飾られていました。
まるでInstagramのホーム画面のよう。
もし、青楓の図案のアカウント (@seihu_zuan) を作ったら、フォロワーが集まるのでは?
さて、そのまま順調に図案家の道に進むのかと思いきや、日露戦争が勃発してしまいます。
当時まだ学生だった青楓は、兵士として召集され、
激戦地である二〇三高地で、凄惨な体験をすることなるのです。
命からがら帰還したのち、彼は図案家から洋画家へと転向することを決めます。
そして、フランスに渡り、本格的に洋画を学びました。
ちなみに、交流のあった高村光太郎の証言によれば、
青楓はフランスでホームシックにかかり、一週間も寝ていたとのこと。
他にも、高村光太郎は、青楓の愉快なエピソードを紹介しています。
青楓はイジられキャラ・・・いや、愛されキャラだったのかもしれませんね。
愛されキャラといえば、あの夏目漱石も青楓を愛した人物の一人。
青楓に油彩を学んだり、文展に落選した青楓に慰めの手紙を送ったり、
その生涯にわたって、漱石と青楓は深い交流を続けていたのだそうです。
なお、『明暗』 や 『彼岸過迄』 などの装丁も、青楓が手掛けています。
さてさて、洋画家に転向した青楓。
当初は、ゴーギャンのような、セザンヌのような、
不思議なテイストの洋画を次々と制作していました。
しかし、次第に、プロレタリヤ運動に近づいたことで、思想的作品を描くようになります。
その時代に描かれたのが、青楓の代表作にして異色作 《犠牲者》 。
どことなく、エゴン・シーレの絵画を彷彿とさせますが、
こちらは、『小林多喜二が、特効警察の拷問によって死亡した事件を題材にした作品です。
時代が時代だっただけに、さすがに青楓も当時この絵を発表することは無かったそう。
戦後になって、初めて発表されたそうです。
ちなみに、青楓はちょうどこの絵を制作している頃、
左翼運動に関わっていたため、官憲に逮捕されてしまいました。
逮捕から約1か月後には釈放されますが、
それを機にプロレタリヤ運動とは決別、さらに洋画とも決別することを決めます。
こうして、青楓は洋画家から日本画家へと三たび転向。
さらには、江戸時代の僧・良寛の書に目覚め、
日本画家と同時に、良寛研究家としても活動するようになりました。
こうして青楓は98歳という長く波乱万丈の生涯をあゆんだのです。
と、その生きざまは大変興味深かったのですが、
本音を言えば、やはり若き日に制作した図案が良かったです。
あの頃は、センスがキレッキレだったのに。
後半生の青楓が描いたウサギの絵を目にした時には、なんだか泣きたくなりました。
1位を目指して、ランキングに挑戦中。
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“生誕140年記念 背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和” に行ってきました。
(注:館内の写真撮影は、特別に許可を得ております。)
こちらは、明治、大正、昭和と3つの時代を生きた画家、
津田青楓 (1880~1978) の没後初となる本格的な回顧展です。
正直なところ、この展覧会を通して、初めて津田青楓の名を知りました。
そんな僕が展覧会を観終えた直後の率直な感想は・・・・・
「何で今まで津田青楓の展覧会が開催されなかったんだ?!」
その一言に尽きます。
作品は面白い。
作風が何度も劇的に変化する。
そして、人生は波乱万丈。
こんなにもキャラが立っているのに、知られざる画家がまだ存在していただなんて!
掘り出し物を見つけたかのようで、テンションの上がる展覧会でした。
まずは図案化としてキャリアをスタートさせる青楓。
アールヌーヴォーの影響を受けながらも、
他の誰ともかぶらない独自のセンスが光る図案を多数発表していきます。
明治期の作品とは思えないほどに、洒脱なデザイン。
むしろ令和の今でも十分通用するのではないだろうか。
そう思って、ふと会場の上に目をやると、
青楓の図案の一部を組み合わせたバナーが飾られていました。
まるでInstagramのホーム画面のよう。
もし、青楓の図案のアカウント (@seihu_zuan) を作ったら、フォロワーが集まるのでは?
さて、そのまま順調に図案家の道に進むのかと思いきや、日露戦争が勃発してしまいます。
当時まだ学生だった青楓は、兵士として召集され、
激戦地である二〇三高地で、凄惨な体験をすることなるのです。
命からがら帰還したのち、彼は図案家から洋画家へと転向することを決めます。
そして、フランスに渡り、本格的に洋画を学びました。
ちなみに、交流のあった高村光太郎の証言によれば、
青楓はフランスでホームシックにかかり、一週間も寝ていたとのこと。
他にも、高村光太郎は、青楓の愉快なエピソードを紹介しています。
青楓はイジられキャラ・・・いや、愛されキャラだったのかもしれませんね。
愛されキャラといえば、あの夏目漱石も青楓を愛した人物の一人。
青楓に油彩を学んだり、文展に落選した青楓に慰めの手紙を送ったり、
その生涯にわたって、漱石と青楓は深い交流を続けていたのだそうです。
なお、『明暗』 や 『彼岸過迄』 などの装丁も、青楓が手掛けています。
さてさて、洋画家に転向した青楓。
当初は、ゴーギャンのような、セザンヌのような、
不思議なテイストの洋画を次々と制作していました。
しかし、次第に、プロレタリヤ運動に近づいたことで、思想的作品を描くようになります。
その時代に描かれたのが、青楓の代表作にして異色作 《犠牲者》 。
どことなく、エゴン・シーレの絵画を彷彿とさせますが、
こちらは、『小林多喜二が、特効警察の拷問によって死亡した事件を題材にした作品です。
時代が時代だっただけに、さすがに青楓も当時この絵を発表することは無かったそう。
戦後になって、初めて発表されたそうです。
ちなみに、青楓はちょうどこの絵を制作している頃、
左翼運動に関わっていたため、官憲に逮捕されてしまいました。
逮捕から約1か月後には釈放されますが、
それを機にプロレタリヤ運動とは決別、さらに洋画とも決別することを決めます。
こうして、青楓は洋画家から日本画家へと三たび転向。
さらには、江戸時代の僧・良寛の書に目覚め、
日本画家と同時に、良寛研究家としても活動するようになりました。
こうして青楓は98歳という長く波乱万丈の生涯をあゆんだのです。
と、その生きざまは大変興味深かったのですが、
本音を言えば、やはり若き日に制作した図案が良かったです。
あの頃は、センスがキレッキレだったのに。
後半生の青楓が描いたウサギの絵を目にした時には、なんだか泣きたくなりました。
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