東京都現代美術館で開催中の “ドローイングの可能性” に行ってきました。
こちらは、展覧会の脇役になりがちなドローイングにあえてスポットを当てた展覧会です。
展覧会の冒頭を飾るのは、戦後美術を代表する画家・麻生三郎のドローイング。
(注:館内は一部の作品を除き、写真撮影禁止です。特別な許可を得て撮影しています。)
情念に満ち満ちたようなこってりとした絵画を描く麻生三郎ですが。
さすがに、ドローイングは、こってり感がなく、さっぱりと軽やかな印象でした。
さてさて、今回の展覧会は、終始こんな感じで、
さまざまな画家のドローイングを紹介していくものなのかと思いきや。
僕らがドローイングに対してなんとなくイメージする、
「ドローイング=本画とは違って、さらさらっと描いたもの」 を紹介していたのは、この冒頭だけ。
展覧会全体としては、「ドローイング=線の芸術」 と捉え、
これまでドローイングという文脈で紹介されてこなかった作品にスポットが当てられていました。
例えば、こちらの作品。
どこかカンディンスキーを彷彿とさせるような。
一見すると、いわゆる普通のドローイングのように思えます。
作者は、石川九楊さん。
職業は、書家。
そう、実はこれらは書の作品なのです。
こちらは 《もしもおれが死んだら世界は和解してくれと書いた詩人が逝った ─追悼 吉本隆明》 という作品。
おそらく石川さん本人にしか読めないでしょうが、
こちらには、ちゃんと日本語で文章が書かれているそうです。
なんとか読んでみようと頑張ってみましたが、どうにも無理!
アラビア文字よりも読めない気がします。
そんな僕のような人のために、会場には、釈文が用意してありました。
釈文を読むに、A41枚に収まりきらないほどの長い長い文章が書かれているようです。
釈文と照らし合わせてみましたが、やっぱり無理でした。
展覧会には、新作も含め、2010年以降の作品が出展されていましたが。
1点だけ、それ以前に書かれた作品が紹介されていました。
「こいつ・・・読めるぞ!」
他の作品があまりにも読めなさすぎただけに、
ちょっとでも文字が読めて、妙に嬉しくなりました (笑)
そして何よりも、この作品があったおかげで、
石川九楊さんがちゃんと文字を書いていたことがわかりました。
この書き方を突き詰めた結果、今のスタイルが確立したのですね。
ちなみに。
書いてある文字はよくわかりませんが、
なんかカッコ良くて、なんか引き付けられるものがあります。
それが、石川九楊作品。
音楽に例えると、マキシマムザホルモンみたいな感じでしょうか (←?)。
さてさて、石川九楊さんの書の作品は、
まだドローイングといわれて、すんなり受け入れられましたが。
今回紹介されていた数々の作品の中で、
もっともドローイングのイメージから遠かったところにあったのが、戸谷成雄さんの作品です。
戸谷成雄さんは、日本を代表する彫刻家の一人。
会場では、彼の新作である 《視線体 — 散》 が紹介されていました。
無数の視線の集積が彫刻を作り出す。
「視線体」 という戸谷さん独自の理論によって制作された作品です。
確かに、壁にランダムに配置されているわけでなく、
よく見れば、無数の線が空間に引かれているように感じられます。
今回の展覧会では、この作品を、『空間へのドローイング』 として紹介していました。
「いや、どこがドローイングだよ!」
と、一瞬、オーソドックスにツッコみそうになりましたが。
展覧会のタイトルは、“ドローイングの可能性”。
そういえば、ドローイングの新たな可能性を探る実験的な展覧会でした。
「いや、どこがドローイングだよ!
・・・・・と、決めつけるのはやめよう。
美術は常に新しい可能性から生まれる。そうだろ?」
と、ぺこぱ風にツッコむのが、
この展覧会での正しい楽しみ方といえましょう。
ちなみに、『ジャズ』 をはじめとするマティスの作品群や、
草間彌生さんの初期のドローイング作品も見応えがありましたが。
それ以上に印象に残ったのは、山部泰司さんの作品群でした。
レオナルド・ダ・ヴィンチへの関心から着想し、
木々の間を水が埋めつくす様子を線描で表現したという作品の数々。
他のどの作品とも一線を画す斬新なスタイルの絵なのに、どこか伝統も感じられます。
また、西洋画のようでもあり、東洋の山水画のようでもあり。
ドローイングかどうかという以前に、
どのジャンルにカテゴライズしていいのか、まったくわからない。
実に不思議な味わいのある作品でした。
お恥ずかしながら、この展覧会を通して、初めて山部さんのことを知りましたが。
作品が目に飛び込んできた瞬間に、一気に心を鷲掴みにされました。
こういった出逢いの可能性があるので、やはり美術館巡りはやめられません。