現在、川崎市岡本太郎美術館では、
“ウチの中の岡本太郎” が開催中ですが。
企画展示室では、“クルト・セリグマンと岡本太郎” が同時開催されています。
(注:館内の写真撮影は、特別に許可を得ております。)
クルト・セリグマンはスイスで生まれ、
第二次世界大戦をきっかけに、ニューヨークへと拠点を移した芸術家です。
日本ではほぼ無名といってもいい人物ですが。
(正直なところ、僕のこの展覧会を通じて初めて知りました)
実は、岡本太郎と特に関わりの深い芸術家であるとのこと。
岡本太郎にもっとも影響を与えた芸術家といっても過言ではないのだとか。
そんな2人の知られざる関係性に迫る展覧会です。
19歳でパリに渡った岡本太郎。
その当時、パリの美術界で注目を集めていたのが、シュルレアリスムのメンバーでした。
そんなシュルレアリスと対立していたのが、
アプストラクシオン・クレアシオンという芸術集団。
カンディンスキーやモンドリアンも属した抽象芸術のグループです。
岡本太郎は、23歳の時にこのグループに、
日本人として唯一、最年少メンバーとして加入。
そこで出会ったのが、クルト・セリグマンです。
岡本太郎といえば、原色を多用したパワーあふれる作風の印象がありますが、
実は、パリ時代は、抽象的なモチーフが暗い色を背景に浮かび上がる、わりと地味目な作風でした。
このスタイルに強い影響を与えたのが、
何を隠そう、クルト・セリグマンなのです。
確かに、似ているといえば、似ています。
ちなみに、壁に展示されているこれらの作品、
パネルのように見えるかもしれませんが・・・・・・パネルです。
実は、コロナのせいで、国外所蔵作品は来日できず、
代わりに、原寸大パネルでの展示になってしまったとのこと。
パネルでも十分に怪しげな雰囲気は伝わってきたので、
出来るのであれば、実物を目にしてみたかったところです。残念。
なお、クルト・セリグマンの油彩画は1点だけ、
岡崎市美術館が所蔵する 《メムノンと蝶》 が出展されています。
何が何で何なのか。
一つもわからない、不思議にもほどがある一枚です。
せめて蝶はわかるように描いてくれ!
ちなみに、展覧会ではこの他にも、2人の関係が紹介されています。
1936年に東京を訪問したセリグマン。
当時、岡本太郎はパリにいたため、
父の岡本一平にセリグマンを歓待するよう頼んだのだそう。
そんな一平の手配により、セリグマンは銀座の三越百貨店で個展を開催することに。
この個展により、彼の芸術運動が日本で知られるようになりました。
そのお礼に、セリグマンが尽力したのが、
そのお礼に、セリグマンが尽力したのが、
1953年にニューヨークで開催された岡本太郎の個展です。
終戦間もないこともあり、岡本太郎は入国できず。
セリグマンが関係各所に連絡を取り、なんとか実現にこぎ着けたそうです。
展覧会ではそのニューヨークでの個展に出展された作品が紹介されていました。
すっかり僕らがイメージする岡本太郎作品ばかり・・・・・と思いきや。
中には、セリグマン感溢れる作品も。
ここからも、2人の関係性が伺えました。
さてさて、そんな2人の密接な関係は、
セリグマンの突然の事故死によって終止符が打たれることに。
ショットガンの暴発事故で亡くなったと知った岡本太郎は号泣したのだそう。
その頃に描かれた絵画作品には、抽象的なモチーフがたびたび登場しています。
展覧会のラストでは、セリグマンの晩年の作品と、
彼の死後に描かれた岡本太郎作品が併せて展示されていました。
確かに、似ているといえば、似ています (Part2)。
ちなみに。
岡本太郎はセリグマンの死後、1960年代中頃から、
「芸術は呪術である」 という主張を強くするようになります。
実は、芸術家としての顔の他に、
セリグマンには、呪術の研究者という一面もあったのだそうです。
岡本太郎の呪術発言には、セリグマンの死が大きく影響していたのかも。
信じるか信じないかはあなた次第です。