現在、箱根のポーラ美術館では、
“フジタ―色彩への旅” という展覧会が開催中。
(注:展示室内は写真撮影禁止。記事に使用している画像は特別にポーラ美術館より提供いただいたものです。(c)Ken KATO )
こちらは、レオナール・フジタこと・・・・・
【写真】エコール・ド・パリの代表的な画家レオナール・フジタ(藤田嗣治)
藤田嗣治にスポットを当てた展覧会です。
数いる芸術家の中でも、その人気の高さは、
おそらくベスト10に入るであろう藤田嗣治だけに。
これまでに何度も、藤田嗣治展は開催されてきましたが、
今展は、藤田嗣治の 「色彩」 に着目したものとなっています。
と言われましても。
藤田嗣治といえば、乳白色。
乳白色といえば、藤田嗣治。
会場全体が、まるで 『旅の宿』 の登別カルルスのように、
乳白色一色に染まっているのかと思いきや・・・・・意外にも、そんなことはなかったです。
展覧会は、藤田がパリに渡った1913年からスタート。
当初は、当時流行していたキュビスム風の作品を描いていましたが。
次第に、華やかなパリとは対照的な都市の風景や、
目と鼻の位置がややズレた特異な人物像を描くように。
そして、さらに試行錯誤するのち、
第一次世界大戦後には、乳白色の肌に辿り着きました。
この唯一無二の女性像で、一躍時代の寵児となります。
↑大人の事情で、かなり引いた状態の画像しか紹介できませんが、
画面奥に映っている裸婦像は、
おそらく藤田が乳白色で女性を描いた第1号のものとのこと。
画面中央の 《坐る女》 という作品は、
ポーラ美術館の新収蔵作品とのことです。
ちなみに、《坐る女》 の女性は、
フリーアナウンサーの川田裕美さんが、
ショートアフロにしたような顔をしていました。
ご参考までに (←?)。
さてさて、乳白色という武器をゲットした藤田。
水を得た魚のように、乳白色の肌をした女性像を多く描いていきます。
中には、女性の肌だけでなく、
背景やカーテン、ベッドのシーツが乳白色なものも。
しかし、この乳白色バブル(?) は長続きしませんでした。
というのも、アメリカで世界大恐慌が起き、
その影響が、フランスを含むヨーロッパにも・・・。
藤田の乳白色をもってしても、絵で食べていくのが難しい状況に陥ってしまったのです。
そこで、藤田は活路を求めて、南米へと旅立ちます。
ブラジルからアルゼンチン、ボリビア、ペルー、エクアドル、
コロンビア、パナマ、キューバ、アメリカを飛ばしてメキシコ、
と、『あいのり』 ばりに南米の各国を旅しました。
南米の強い陽光と独特の文化に触発された藤田は、
メランコリックな乳白色の作風からガラッと一変します。
色彩は明るく強烈に、画面も密度が濃いものに!
ツグハル・インティライミと改名したのかと思うくらいに、ラテン系のアーティストになっていました。
そして、中南米から帰国後、しばらくは日本各地を旅します。
ところが、第二次世界大戦を機に、日本と決別。
ニューヨークに渡り、そして、最後は再びフランスへ移住しました。
フランス人として生きていくことを決意した藤田は、
再び、乳白色の肌を取り戻すべく制作活動に励みます。
乳白色オンリーの人生というイメージがありましたが、
いやはや、この乳白色に藤田の画家人生が詰まっていたなんて。
そのことを知った上で、改めて観てみると、乳白色に深みを感じました。
ちなみに、展覧会のラストでは、
再び渡仏した藤田がアパルトマンの壁を飾るために制作した壁画、
「小さな職人たち」 を構成していた15㎝四方パネルの数々が紹介されています。
当時の室内を映した写真を参考にすると、
壁には約115点ほどのパネルが飾られていたそう。
そのうちの実に96点をポーラ美術館が所蔵しているそうです。
今展では、そのすべてが惜しげもなく一挙展示されていました。
各パネルに描かれているのは、
床屋やパン屋、瓦職人など、さまざまな職業に扮した子供たちの姿。
そんな 「小さな職人たち」 を眺めていたら、
なんとなくキッザニアを連想してしまいました。