明治末から昭和戦前にかけて活躍した日本画家、池上秀畝(1874~1944)。
その生誕150年を記念して開催されているのが、
練馬区立美術館の“生誕150年 池上秀畝—高精細画人—”です。
(注:展示室内の写真撮影は、特別に許可を頂いております。)
きっと大半の方が、池上秀畝という名を聞いて、
“あのー、全然知らないんですけど。どんな画家ですか?”、
という問いが脳裏に浮かんだことでしょう。
いい質問ですね。
池上秀畝はズバリ、「旧派」を代表する画家です。
「旧派」があるということは、もちろん「新派」もあるわけで。
本展ではまず、その違いから紹介すべく、
「新派」を代表する画家の一人、菱田春草と併せて紹介されています。
それぞれ中国の故事に由来する作品で、
向かって左が秀畝、右が春草によるものです。
秀畝が描く女性のとぼけた表情が、
どうにも気になるところですが、そこはスルーしまして。
実は、秀畝と春草は同い年、同じ長野県出身で、
しかし、ほぼ同じタイミングで画家を目指して上京しています。
春草は横山大観や下村観山とともに、
開校して間もない東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。
岡倉天心らのもとで、近代的な教育制度のもと、
様々な技法を学び、日本画における新たな表現を追求しました。
それが、のちに「新派」と呼ばれるメンバーたちです。
対して、秀畝は荒木寛畝という画家のもとに弟子入り。
師弟関係による修行という王道のスタイルを選びました。
伝統的な制度で伝統的な技法を学ぶ。
それが、「旧派」です。
お笑いに例えるなら(?)、NSCに入学するのが「新派」、
ベテランの漫才師や落語家に弟子入りするのが「旧派」でしょうか。
「旧派」という字面だけ見ると、
まるでオワコンのような印象を受けますが。
「旧派」はあくまで伝統を重視したということに過ぎません。
実際、旧派を代表する秀畝は、
文展や帝展といった官展を主な発表の場とし、数多くの賞を受賞。
さらには、帝展で無鑑査、審査員を務めるほどでした。
オファーも殺到しており、注文してから、
実際に絵画が納品されるまで、4年かかったという記録も残っているそうです。
さて、本展では、官展で特選を受賞した作品や、
かつて目黒雅叙園の天井を飾っていた作品をはじめ、
そんな秀畝の代表作が、日本各地から大集結しています。
仏画や風景画など、あらゆるジャンルを得意とした秀畝ですが。
その中でももっとも得意としたのが、鳥の絵でした。
人呼んで、「鳥の画家」。
もちろん本展にも鳥を描いた絵が、数多く出展されています。
さらには、鳥を写生したものも数多く紹介されています。
それらの中でもハイライトというべきが、
オーストラリア大使館が所蔵するこちらの杉戸絵。
左が秀畝の作で、右は師である荒木寛畝の作です。
実は、この杉戸絵はもともと、
旧大名家の蜂須賀侯爵邸に納められたものだとか。
しかし、蜂須賀侯爵邸は建て壊されたものの、
その敷地に建てられたオーストラリア大使館に、
こちらの杉戸絵は大事に受け継がれたのだそうです。
なお、一見すると、孔雀に見えるのですが、
この絵の正しいタイトルは、《桃に青鸞》とのこと。
青鸞(セイラン)は東南アジア南部に分布する鳥で、
その全長は2メートル近くにも及ぶキジ科の仲間です。
鳥が描かれた絵は数多く観てきましたが、青鸞は初めて。
なんでまたこんな珍しい鳥が画題になったのかと思えば、
なんでも発注者の子息で、18代目当主・蜂須賀正氏なる人物は、
絶滅鳥ドードー研究の権威として知られた鳥類学者だったそうで。
ケンブリッジ大学での卒論のテーマに「鳳凰とは何か」を選び、
その中で鳳凰のモデルはカンムリセイランであると結論付けたのだとか。
それゆえ、蜂須賀家にとっては、セイランが馴染み深い鳥だったのでしょう。
ちなみに。
この杉戸絵の裏側は、こんな感じになっていました。
生命力あふれる松の幹に、
迫力のある白鷹がとまる秀畝の力作に対して。
寛畝の描く芭蕉といったら・・・。
やる気スイッチが切れてしまったのでしょうか。
なお、展覧会のラストを飾るのは、
1943年に描かれた秀畝最晩年の《神風》です。
時代は、戦争真っただ中。
元寇を題材に、戦勝を祈願して描かれたものです。
この時、秀畝は70歳。
古希を迎えたとは思えないほど、
ダイナミックで迫力溢れる作品でした。
高精細にして、高出力。
秀畝のスペックは決して、旧式ではありませんでした。