現在、江戸東京たてもの園では、
江戸から東京へ改称して150年という節目の年を記念して、“看板建築展” が開催されています。
こちらは、都内各所から6棟も移築、復元、公開されている、
江戸東京たてもの園の看板の一つともいうべき、「看板建築」 にスポットを当てた展覧会です。
看板建築とは、建物の前面は、銅板やモルタルなどで洋風に装飾されているものの。
横や裏側に回ってみると、「えっ、あれっ、木造?!瓦屋根?!」 な和風の商店建築のこと。
まるで、家の正面に1枚の大きな看板を取り付けたかのよう。
そのことから、建築史家の堀勇良氏によって、看板建築と命名されました。
ちなみに、看板建築という言葉が公に初めて登場するのは、1975年の学会でのこと。
江戸東京たてもの園の姉妹館である江戸東京博物館の現館長で、
堀勇良氏の長年の友人である建築史家の藤森照信氏 (当時は学生) によって発表されたそうです。
さてさて、今回の展覧会。
まずは、関東大震災関連の資料から始まります。
実は、看板建築と関東大震災には深い関係があるのです。
関東大震災によって、街の多くが消失してしまいました。
しかし、数年後には、街は復興を始めます。
鉄筋コンクリート造のビルが建ち並び、近代的な街並みへと変貌を遂げていきました。
が、その一方で、資金的に鉄筋コンクリート造の建物を作れない商店も多く存在。
それらの商店は、準防火という考え方から、
木造建築の外壁をモルタルや金属板、タイルといった不燃性の材質で覆ったのだそう。
それにより、神田や人形町など、東京のあちこちに看板建築が誕生することとなったのです。
ちなみに、当時は世界的に銅の価格が安かったとのこと。
そのため、看板建築の銅板が多用されています。
展覧会場では、さまざまな看板建築が模型やパネルで紹介されていましたが。
共通しているのは、プロ (=建築家) の仕事っぽくないなぁということ。
良く言えば、味があるデザイン。
悪く言えば、素人臭いデザインです。
それもそのはず、看板建築のデザインを行ったのは、担当した大工の棟梁とのこと。
中には、施主自らがデザインを行う例もあったのだとか。
また、建物の1面、つまり平面のデザインなので、
画家によってデザインされた看板建築もあるそうです。
(こちらの海老原商店をデザインしたのは、施主の知人の画家とのこと)
・・・と、さんざん看板建築に関する様々な模型や資料を見てきましたが。
やはり、実際の看板建築が見たいところ。
後ろ髪を全く引かれることなく、展覧会場を後にし、
江戸東京たてもの園の看板建築ゾーンへと足を運びました (笑)
実際の看板建築を目にするまでが、“看板建築展” です。
これぞ、“ザ・看板建築” の丸二商店。
かつては、神田神保町にあったという荒物屋です。
よく見ると、銅板の貼り方が何パターンかありました。
どうして、そこにこだわりを発揮したのかは謎です。
そんな丸二商店は、鍋のディスプレイにも謎のこだわりを発揮。
上から5、6番目の鍋とか取りづらかろうに。
お次は、村上精華堂。
池之端の不忍通りに面して建っていた化粧品屋です。
他の看板建築と違って、側面や裏側は木造剥き出しというわけではないですが。
側面は、実にシンプル。
潔いくらいに、デザインに力を入れていません。
しかし、その分、正面には全力投球!
これでもかというくらいに、古代ギリシャ・ローマ建築風の柱のデザインが施されていました。
その数、18本。
いくら何でも、やりすぎです。
個人的にイチオシなのは、植村邸。
「ゴゴゴゴゴゴゴ」 という擬音語がしっくりくる看板建築です。
圧倒的ゴテゴテ感。
圧倒的威圧感。
何かしらのアジト、秘密結社だったのでは?
植村なる人物は、世界征服を企んでいたのでは?
妄想は尽きません (注:個人の勝手な感想です)
ちなみに、こちらの植村邸に関して、
展覧会場にて、地下収納スペースから発見されたという大量の耳かきが展示されていました。
なぜ、これほどまでの耳かきを必要としたのか。
大量の耳かきを使っての世界征服??
やはり妄想は尽きません (注:あくまで個人の勝手な感想です!)
1位を目指して、ランキングに挑戦中。
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江戸から東京へ改称して150年という節目の年を記念して、“看板建築展” が開催されています。
こちらは、都内各所から6棟も移築、復元、公開されている、
江戸東京たてもの園の看板の一つともいうべき、「看板建築」 にスポットを当てた展覧会です。
看板建築とは、建物の前面は、銅板やモルタルなどで洋風に装飾されているものの。
横や裏側に回ってみると、「えっ、あれっ、木造?!瓦屋根?!」 な和風の商店建築のこと。
まるで、家の正面に1枚の大きな看板を取り付けたかのよう。
そのことから、建築史家の堀勇良氏によって、看板建築と命名されました。
ちなみに、看板建築という言葉が公に初めて登場するのは、1975年の学会でのこと。
江戸東京たてもの園の姉妹館である江戸東京博物館の現館長で、
堀勇良氏の長年の友人である建築史家の藤森照信氏 (当時は学生) によって発表されたそうです。
さてさて、今回の展覧会。
まずは、関東大震災関連の資料から始まります。
実は、看板建築と関東大震災には深い関係があるのです。
関東大震災によって、街の多くが消失してしまいました。
しかし、数年後には、街は復興を始めます。
鉄筋コンクリート造のビルが建ち並び、近代的な街並みへと変貌を遂げていきました。
が、その一方で、資金的に鉄筋コンクリート造の建物を作れない商店も多く存在。
それらの商店は、準防火という考え方から、
木造建築の外壁をモルタルや金属板、タイルといった不燃性の材質で覆ったのだそう。
それにより、神田や人形町など、東京のあちこちに看板建築が誕生することとなったのです。
ちなみに、当時は世界的に銅の価格が安かったとのこと。
そのため、看板建築の銅板が多用されています。
展覧会場では、さまざまな看板建築が模型やパネルで紹介されていましたが。
共通しているのは、プロ (=建築家) の仕事っぽくないなぁということ。
良く言えば、味があるデザイン。
悪く言えば、素人臭いデザインです。
それもそのはず、看板建築のデザインを行ったのは、担当した大工の棟梁とのこと。
中には、施主自らがデザインを行う例もあったのだとか。
また、建物の1面、つまり平面のデザインなので、
画家によってデザインされた看板建築もあるそうです。
(こちらの海老原商店をデザインしたのは、施主の知人の画家とのこと)
・・・と、さんざん看板建築に関する様々な模型や資料を見てきましたが。
やはり、実際の看板建築が見たいところ。
後ろ髪を全く引かれることなく、展覧会場を後にし、
江戸東京たてもの園の看板建築ゾーンへと足を運びました (笑)
実際の看板建築を目にするまでが、“看板建築展” です。
これぞ、“ザ・看板建築” の丸二商店。
かつては、神田神保町にあったという荒物屋です。
よく見ると、銅板の貼り方が何パターンかありました。
どうして、そこにこだわりを発揮したのかは謎です。
そんな丸二商店は、鍋のディスプレイにも謎のこだわりを発揮。
上から5、6番目の鍋とか取りづらかろうに。
お次は、村上精華堂。
池之端の不忍通りに面して建っていた化粧品屋です。
他の看板建築と違って、側面や裏側は木造剥き出しというわけではないですが。
側面は、実にシンプル。
潔いくらいに、デザインに力を入れていません。
しかし、その分、正面には全力投球!
これでもかというくらいに、古代ギリシャ・ローマ建築風の柱のデザインが施されていました。
その数、18本。
いくら何でも、やりすぎです。
個人的にイチオシなのは、植村邸。
「ゴゴゴゴゴゴゴ」 という擬音語がしっくりくる看板建築です。
圧倒的ゴテゴテ感。
圧倒的威圧感。
何かしらのアジト、秘密結社だったのでは?
植村なる人物は、世界征服を企んでいたのでは?
妄想は尽きません (注:個人の勝手な感想です)
ちなみに、こちらの植村邸に関して、
展覧会場にて、地下収納スペースから発見されたという大量の耳かきが展示されていました。
なぜ、これほどまでの耳かきを必要としたのか。
大量の耳かきを使っての世界征服??
やはり妄想は尽きません (注:あくまで個人の勝手な感想です!)
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