現在、館林美術館で開催されているのは、
“大下藤次郎と水絵の系譜” という展覧会です。
実は、明治時代の中期から末期にかけて、
日本において、空前の水彩画ブームが巻き起こりました。
その立役者となったのが、今展の主役である大下藤次郎です。
1870年。文京区本郷で、旅人宿を営む家に生まれた大下藤次郎。
家業を手伝うかたわら、絵描きになりたいと夢を抱きます。
最初は油彩画を描いていましたが、
来日した海外の水彩画家による展覧会で、
水彩画に非常に感銘を受け、独学で水彩画を描くようになります。
大下藤次郎 《日光》 1897年 水彩、紙 島根県立石見美術館蔵
この頃、大下藤次郎以外にも、水彩画を描く日本人画家は少なかったようですが、
その多くは、水彩画も描くものの、どちらかといえば油彩画をメインにしていたようです。
水彩画一本で勝負していたのは大下以外では、
自身の水彩画をアメリカで売り、そのお金でヨーロッパに渡った三宅克己や、
三宅克己 《ニューヘヴンの雪》 1898年 水彩・紙 東京藝術大学蔵[前期展示]
その三宅の盟友で生涯水彩画家を貫いた丸山晩霞ら数名でした。
丸山晩霞 《高原の秋草》 1895-98年 水彩・紙 丸山晩霞記念館蔵倉沢コレクション
油彩画に比べて人気が薄く、かつ画家人口も少ない水彩画。
そんな水彩画界のピンチを救ったのは、
1901年に大下藤次郎が出版した1冊の本でした。
タイトルは、『水彩画之栞』。
水彩画の道具や技法を紹介した本です。
当初はそんなに売れないと思われていたようですが、
そのわかりやすさから、15版を超えるほどの大ベストセラーに!
あまりのことに、大下本人もビックリ。
今でいえば、何の気はなしにYouTubeにアップした、
キャンプ動画や魚を捌く動画がバズったような感じでしょうか。
何はともあれ、この本をきっかけに、空前の水彩画ブームが起こったのです。
展覧会では、実際の大下の水彩画作品とともに、
『水彩画之栞』 に掲載されているテクニックが紹介されていました。
例えば、つつじの花を描くテクニック。
大下藤次郎 《つつじ》 1898年 水彩・紙 島根県立石見美術館蔵
「赤いつつじの花は、花びらをカーマインレッドで描き、
中心のへこんだ部分はクリムゾンレーキを使うと良い」
テクニックが具体的!
確かに、少しでも絵心のある人ならば、
これを読んだら、実践してみたくなることでしょう。
さてさて、水彩画ブームが起きたのちも、
さらに水彩画を広めるべく、大下は奮闘します。
水彩画教室を定期的に開催したり。日本水彩画研究所を設立したり。
また、水彩画を普及するための専門月刊誌も創刊します。
その名は、『みづゑ』。
1992年に休刊した日本を代表する美術雑誌です。
大正末期からは近代絵画中心の内容にシフトチェンジしたのだそう。
まさかあの 『みづゑ』 が、「水絵」 からきていただなんて。
今日の今日まで知りませんでした。
ちなみに。
水彩画ブームをもたらした以外にも、
大下藤次郎は、あるものを日本に広めています。
大下藤次郎 《尾瀬》 1908年 水彩・紙 府中市美術館蔵[後期展示]
実は、明治時代には、ほとんど人が行くことはなく未開の地だった尾瀬。
そんな尾瀬に苦労をしながらも足を踏み入れ、
その美しい景色を水彩画で発表したのが、大下藤次郎でした。
もし、大下がいなかったら、
日本人は夏がきても、尾瀬を思い出すことはなかったことでしょう。
大下藤次郎ありがとう!
ところで、何よりも気になったのは、
なぜ、その水彩画ブームが終わってしまったのかということ。
展覧会では、そこには特に触れられていませんでした。
41歳という若さで大下が急死してしまったというのが、大きな理由なのかもしれません。
また、油彩画や日本画と違って、
水彩画をアカデミックに教える機関がなかったことも関係しているのかも。
それと、もう一つ。
大下藤次郎に学んだという弟子の後藤工志の作品が数点飾ってあったのですが・・・。
後藤工志 《相州真鶴附近風景》 1918年 水彩・鉛筆・紙 東京国立近代美術館蔵
見た目は完全に油彩画でした。
弟子がもう、水彩画に飽きてるじゃん。
そりゃブームが長続きしないはずです。