もしも、芸術家たちが漫才をしたら・・・
こんな感じのネタを披露するのかもしれません。
それでは、皆様、どうぞ芸術漫才をお楽しみください!
柿右衛門 「どーも、セラミックボウルアワーの酒井田[1]です。 よろしくお願いします」
仁清 「野々村[2]です。お願いします。まぁ、我々も50を過ぎましてね。
もうぼちぼち陶芸家として名を残したいなぁ思うてるんですよ」
柿右衛門 「まぁそうやな、本当ええ歳ですからね。
なかなか僕らのスゴさが伝わってないから、伝えていかんと」
仁清 「いやそうなんですよ」
柿右衛門 「酒井田家はオトンの代から磁器を作ってるんですけど。
大陸から伝わった頃の磁器って、
どれも白磁に青一色で染付されてたんですよ。
父も他の陶工もな、他の色で染付るのは難しい思い込んでんねん。
そんな凝り固まった考え方は、ほぐさなあかんやん。焼きそばをほぐすみたいに」
仁清 「うん・・・」
柿右衛門 「パラパラパラっと」
仁清 「うん。・・・ほんで、焼かんでええやん」
柿右衛門 「え?」
仁清 「焼きそばて、別に焼かんでええやん!」
柿右衛門 「焼きそばをほぐすみたいにパラパラパラっと」
仁清 「いや、違うやん。
今、ほぐすって話してんねんから、そこは蕎麦でええやん」
柿右衛門 「いや、まあせやけど。別にかめへんやん。変わるわけじゃないし」
仁清 「ほな、ソースの香りは必要なん?」
柿右衛門 「いや、ソースの香りはは必要ないけど」
仁清 「それやったらほぐすだけやねんから、例えとしては、蕎麦の方がええやん」
柿右衛門 「まぁまぁえぇけど。
ほんでな、ある日、夕日に照らされた柿を見てな。
『わー、めっちゃ綺麗やなぁ』 って、俺、感動してん。
で、この色を磁器で作りたいって言うたら、
オトンや周りの人たちに、絶対無理やろってバカにされたんや。
でも、諦めずに研究を続けたらな、赤い色が出せるようになってん。
こうして誕生したのが日本初の赤絵[3]やねん」
仁清 「俗にいう、柿右衛門様式ってヤツやな。
お前がおらんかったら、赤い磁器は日本になかったんかもな」
柿右衛門 「そうやで。柿右衛門って名前もな、この時に改名してん。
それまでは、喜三右衛門って名前やったからな」
仁清 「そうなんや。それだけお前にとって柿は大事な存在なんやな」
柿右衛門 「ただ、赤絵の赤はな、柿の橙色というよりも、
もう少し赤味が強いから、焼きリンゴみたいな色やけどな」
仁清 「焼かんでええやん!」
柿右衛門 「えぇやん、焼いても」
仁清 「リンゴでええやん!」
柿右衛門 「なんでそんな焼いたらあかんの。 例えた段階で焼き上がってただけやん」
仁清 「例えた段階で焼き上がってるって何やねん。
赤い色を表現するなら、リンゴみたいて言うたほうがええやん」
柿右衛門 「一緒やん、別に」
仁清 「焼いてたら、ちょっと黒いところもあるのかもなと思われるやん」
柿右衛門 「焼いてるけど、アルミホイルに包んで焼いてるやん」
仁清 「それでも焼き目できるやん。何でそんな焼きたいん?」
柿右衛門 「いや、焼きたいわけじゃないけど、たまたまやん。
例えで焼きリンゴが出てきたんやから。お前、いちいち細かいねん」
仁清 「ほんなら話し戻すけど、どれくらい赤の色の研究しててん?」
柿右衛門 「5、6年はかかったかな」
仁清 「ほぅ、長いこと研究してたなぁ」
柿右衛門 「まぁ、でも、研究するのは好きやねん。
三度の焼き飯より好きやねん」
仁清 「焼かんでええやん!焼きにいってるやん!」
柿右衛門 「焼きにいってはないよ」
仁清 「何でお前、三食とも焼き飯やねん!」
柿右衛門 「そういう日もあるやん」
仁清 「無いやろ!百歩譲って昼と夜、焼き飯はあるかもしれんけど。
朝から焼き飯はないやん」
柿右衛門 「うちの家はそういう日もあんねん。
そんなに突っかかってくんなよ。お前、心に余裕がないねん」
仁清 「何がやねん」
柿右衛門 「柿右衛門様式みたいに、心に余白を持ったほうがえぇねん」
仁清 「ほぅ、『濁手』[4]って呼ばれる素地のことかいな?」
柿右衛門 「そうや。これまでの磁器には、全面にみっちり絵付けされてたけど。
磁器も日本画と一緒で、余白が必要やねんな。その方が絵が映えんねん。
ちなみにな、『濁手』 は真っ白に見えるかもしれんけど、
よう見ると、実は乳白色やねん。炙りエンガワみたいな」
仁清 「焼かんでええやん!
特殊な道具使うて、表面をサッと焼きにいってやるやん!」
柿右衛門 「なんやねんもう!うるさいわ!」
仁清 「うるさいわちゃうわ!話変えろお前は。腹が立つ」
柿右衛門 「わかった、話変えますよ。
ほんなら、お前もし明日死ぬってなったら、
最後の晩餐の食卓に、どんな食器を並べたい?」
仁清 「だいぶ話変わるな!」
柿右衛門 「もう死ぬ前の最後の晩餐や」
仁清 「最後やったら、まぁせやな。自分が大成した京焼[5]の器かな」
柿右衛門 「焼かんでええやん!」
仁清 「焼くやん!」
柿右衛門 「焼かんでええやん!」
仁清 「これは焼くやん!」
柿右衛門 「すぐ焼いてきたやん!
俺に今まで散々焼くな焼くな言うてきて、すぐ焼いたやん!」
仁清 「いや、これは焼かなあかんやつやん!」
柿右衛門 「ええやん、焼かんでええやん。土のままでええやん」
仁清 「何で俺死ぬ前に、土の上に料理乗っけて食べんねん」
柿右衛門 「なんやねん、俺には焼くな焼くな言うといてお前は焼いてええのか?
野々村家だけの特権か、焼くのは。酒井田家だって、焼かしてくれよ」
仁清 「焼かなあかんやつやもん」
柿右衛門 「ずるいわー。 お前だけ焼くん。
ところで、お前は京都のどのあたりで制作してん?」
仁清 「まぁ、仁和寺の門前[6]やな。そこに窯を築いて、いろいろ作ってるわ」
柿右衛門 「仁和寺っていうたら歴史あるお寺やし、めっちゃええとこやん」
仁清 「今はそうかもしれんけどな。
俺が窯を築いた当時は、仁和寺の辺りは、
応仁の乱の影響で、すっかり焼け野原やったからなぁ」
柿右衛門 「焼かんでええやん!」
仁清 「焼くやん!」
柿右衛門 「また焼いたやん!」
仁清 「焼くやつやもん!」
柿右衛門 「野原でええやん」
仁清 「意味変わってくるやん。仁和寺の前に野原って。ピクニックしたろかい!」
柿右衛門 「焼いて焼いて。お前、放火魔やん」
仁清 「誰が放火魔や!人聞きの悪いこというなや」
柿右衛門 「なんやねんお前は。そんなに焼くんずるいわ、ほんま」
仁清 「しゃあないやろ、そんなもん。焼かなあかんものを俺は言っていってるだけや」
柿右衛門 「俺かて、それやったら焼きたいわ。
ほんなら俺、有田焼だけやなくて、信楽焼も備前焼も焼いたるからな!
焼きまくるぞえ!」
仁清 「何で日本中の焼き物を焼くねん!お前は有田焼だけやってたらえぇねん」
柿右衛門 「すぐそうやって決めつける、お前は!ほんま器の小さいやつやなぁ。陶芸家だけに」
仁清 「何や、陶芸家だけにって!」
柿右衛門 「(手で大きさを表して) お前の器の大きさなんてこんなんやん。ゆで落花生くらいやん」
仁清 「いや、茹でんでええやん!もうええわ」
2人 「どうもありがとうございました」
[1]酒井田柿右衛門初代 (1596~1666)
江戸時代。肥前国 (今の佐賀県) 有田の陶芸家。
代々、その子孫 (後継者) がその名を襲名している。現在は、十五代。
[2]野々村仁清 (生没年不詳)
江戸時代前期の陶芸家。通称は清右衛門。
それまでの陶工は職人に過ぎなかったが、仁清は作品に自分の名の印を捺し、作家性をアピった。
特にろくろの技術に優れている。
[3]夕日に映える柿の実を見て、酒井田柿右衛門初代が赤絵を作ったとするエピソードはおそらくフィクション。
大正時代の国語の教科書に掲載されていた 『陶工柿右衛門』 で世に広まったそうな。
[4]“にごりで” ではなく、”にごしで” と読む。
柔らかく温かみのある乳白色か、柿右衛門様式の美しい赤絵にもっとも調和するのだとか。
[5]桃山時代以降、京都で作られた焼物全般を京焼と呼ぶ。
白い下地を施した陶器に色絵を施す京焼の一般的なイメージの原型を仁清が生み出した。
[6]なぜ、仁清が仁和寺の門前を選んだのか、いまだに明らかになっていない。
仁和寺のあった地名・御室から、仁清は自身のやきものを 『御室焼』 と呼んでいる。
ちなみに、仁清という名は、「仁」 和寺と 「清」 右衛門の名から取られたもの。