現在、長野県立美術館で開催されているのは、
“戸谷成雄 彫刻─ある全体として”という展覧会です。
国内外で活躍する現代彫刻家のレジェンド、戸谷成雄さん(1947~)。
これまでに国内外で数多くの個展が開催されてきましたが、
戸谷さんの地元である長野県で開催されるのは、意外にも今回が初めてとのこと。
満を持しての凱旋展ということもあって、初期作から最新作まで、
さらに、代表的な《森》シリーズの作品を含め約30点が集結しています。
戸谷成雄さんといえば、彫刻刀やノミではなく、
チェーンソーで木材を刻むという、独創的な作品で知られる彫刻家。
彼にとって、「作品を制作する」ことは「木を殺す」ことなのだとか。
それゆえ、これまで僕の中で勝手に、
『チェーンソーマン』の主人公デンジのような、
型破りで頭のネジがぶっ飛んだタイプなのかと思い込んでいました。
が、しかし!
今展で紹介されていた戸谷さんの言葉の数々、例えば―
70年代、私は、屋剤の死を確認し、新たな《彫刻》の再生を願っていた。
それは「感性の空間的余地と、概念の歴史的に応性としての場に」
「ここ」「として結ぶ像」、かたまりを求めるものであり、
又、「記号へと転位した彫刻」に、メチエを取りもどし、
「イメージとの」断絶に生じた「間隙」に肉体を差し込むことであった。
地形・地勢といったもののが、ことばや、
イメージにとって根源的なものであることは、まちがいがない。
私は今まで「森」という具体的なものと、
「表面」という抽象的観念の間に「彫刻」という場を見出そうとして来た。
いいかえると、「森」を「表面」に向かって構築し、
「表面」を「森」に向かって解体する作業といってもよい。
この具体性と抽象性の振幅を、「界面」と呼ぶことにする。
「言霊」も「地霊」も、この「界面」に発生するものである。
といった、大学入試の現代文の問題みたいな文章を目にして、
むしろ感性よりも、思想を重視して制作されていることに気づかされました。
社会学者のようでもあり、哲学者のようでもあり、宗教家のようでもあり。
さまざまな要素が複雑に絡み合った人物でした。
そんな戸谷さんの作品はどれも、
それぞれに深いコンセプトが込められています。
そのすべてを説明しようとすると、
何時間もかかってしまいそうなので、この記事では割愛。
どうしても気になる方は、こちらのインタビュー記事を参考にしてみてくださいませ↓
一見すると、ミニマルな彫刻作品ですが、
知れば知るほど、森の奥の奥に迷い込むような感覚に陥ります。
普段使わない部分の脳の筋肉を使ったので、
翌日、脳の筋肉が軽く筋肉痛を起こしました(ような気がしました)。
とはいえ、頭をそんなに使わなくても、
ただ単純に眺めるだけでも楽しめる作品も多々あります。
例えば、こちらの《洞穴体Ⅴ》。
高さ2.2mの巨大な立方体。
よくよく近づいて観てみると、
その表面には、無数のグリッド線が彫られています。
その作業を想像するだけでも驚きですが、
2階のスペースから、作品を覗き込むと、さらなる驚きが!
その内部には、無数の線と、
無数の襞のようなものが存在しています。
吹き抜け空間に展示されているから良いようなものの(←?)。
身長が2.5mくらいなければ、中を覗き込むことは不可能。
見えない内部に、ここまでこだわるその執念に、ちょっと恐怖すら感じました。
ちょっと恐怖を感じたと言えば、
こちらのインスタレーション作品《連句的Ⅱ》も。
もともとは、1996年にとあるギャラリーで発表された作品で、
今展のために当時の展示スペースを完璧に再現し、再制作したものです。
壁には木の棒が貫通した頭蓋骨があり、
床には魔法陣のようなものがチョークで描かれています。
さらに、中央のテーブルの上には、
割れたガラスが大量に突き刺さっています。
サイコサスペンス映画やドラマに出てくる、
連続殺人事件の容疑者の部屋を彷彿とさせるものがありました。
(実際は、阪神淡路大震災にインスパイアされて制作された作品だそうです)
他にも、貞子が中から出てきそうな《界面体Ⅲ》や、
ZAZYのように大きな翼が生えた人が壁にめり込んでいる《森化Ⅱ》など、
インパクトが強い作品が多々ありましたが、
というか、インパクトが強い作品しかなかったですが。
個人的に一番印象に残っている作品は、
日本建築をモチーフにしたという《〈境界〉からⅢ》です。
日本の家屋や茶室だけでなく、
縄文時代の住居の要素も取り入れているのだとか。
ちなみに、この作品は内部に入ることが可能となっています。
一歩足を踏み入れた瞬間、
ぞわぞわ・・・いや、みぞみぞしました。