現在、千葉市美術館で開催されているのは、
“亜欧堂田善 江戸の洋風画家・創造の軌跡”という展覧会。
没後200年を迎えた江戸時代後期の洋風画家、
亜欧堂田善に焦点を当てた、首都圏では実に17年ぶりとなる回顧展です。
(注:展示室内の写真撮影は、特別に許可を得ております。)
本展の主役は、この人。
福島県須賀川市出身の亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)です。
須賀川市と聞いて、特撮好きの人であれば、
ゴジラやウルトラマンの生みの親、円谷英二を思い浮かべたかもしれませんが。
実は何を隠そう、亜欧堂田善は円谷英二の先祖に当たるそうです。
と、それはさておき、本名は永田善吉。
ナベツネと同じスタイル(?)で、
2番目と3番目の文字を取って、田善です。
もともとは絵師を目指していたものの、
家の事情で家業の染物屋を継ぐことになった田善。
しかし、その経緯は不明ですが、白河藩の藩主で、
寛政の改革でお馴染みの松平定信に、銅版画を取得するよう命じられます。
その時、47歳。
江戸時代としたら、超遅咲きのセカンドキャリアのスタートです。
なお、取り立てられた際に、
松平定信から授けられたのが、「亜欧堂」という号。
亜細亜(アジア)と欧羅巴(ヨーロッパ)にわたるという意味が込められているのだとか。
さて、松平定信が、田善に銅版画の技法を、
習得させたのには、切実な理由がありました。
それは、国の大きな仕事に、銅版画が必要不可欠だったため。
地方の一職人にしか過ぎなかった田善は、
試行錯誤を重ねた末に、銅版画の技法をマスター。
日本初の銅版画による解剖図『医範提鋼内象銅版図』や、
幕府が初めて公刊した世界地図『新訂万国全図』といった、
大仕事の数々を、見事成し遂げるまでになったのです。
亜欧堂田善が、そんなにもスゴい人物だったとは!
伊藤若冲や歌川国芳がブレイクした昨今、
もっと評価されるべき江戸の絵師といえるでしょう。
さてさて、今回の展覧会では、
そんな田善の銅版画や肉筆の洋風画を中心に、
同時代絵師や弟子の作品、田善が参照した西洋版画など、
日本各地から約250点(!)が一堂に集められています(会期中展示替えあり)。
中でも特に注目したいのが、田善の代表作で、
重要文化財にも指定されている《銅版画東都名所図》です。
今展では、その貴重な銅板の原板も併せて展示されていました。
銅板画という文化が日本にほぼ無かった時代に、
これだけ、細密な彫りの技術を習得していただなんて。
田善の努力には頭が下がる思いです。
ちなみに。
今回出展されていた作品の中で、
特に印象に残ったものをいくつかご紹介いたしましょう。
まずは、《江戸城辺風景図》から。
田善は銅板画だけでなく、西洋風の油彩画も多く残しています。
こちらの作品で描かれているのは、江戸城近辺の景色。
画面左手に江戸城の石垣と堀が描かれています。
というわけで、現実の光景が描かれているはずなのですが、
なんとなく、全体的にシュルレアリスムっぽい空気感が漂っています。
デ・キリコの作品世界のような。
続いては、晩年の田善が手掛けた肖像画《遠藤猪野右衛門像》です。
実際にモデルがそういう顔だったのか。
はたまた、田善によるデフォルメなのか。
顔が面長にもほどがあります。
図らずも、この絵もシュールな空気が漂っていました。
顔の描写といえば、《少女愛犬図》も。
こちらは、イギリスの銅版画《少女ラッセルズ》を元に作成されたもの。
この銅版画を、田善が彼なりに、
墨一色で再現してみたところ、こんな仕上がりになってしまいました。
なんか出っ歯になってね?
おそらくは、下唇を表現したかったのでしょうが、
もはやマチャミのモノマネをする原口あきまささんのようです。
銅板画の作品の中にも、じわじわくるものが多々ありました。
あえて一つだけ挙げるなら、《ミツマタノケイ》でしょうか。
風が急に強く吹いたのでしょう。
女性の髪が、思いっきり与謝野ってます(=乱れてます)。
何でこんなシーンをわざわざ描こうと思ったのか。
それも、銅版画で作ろうと思ったのか。
謎も謎です。
最後に紹介したいのは、《蘭語江戸地名》です。
江戸の地名がm当時のオランダ語で表記されています。
解読するのは、かなり至難の業。
例えば、一番下の「SOEMIDAGAWA」は「隅田川」、
上から2番目の「KINLIWOEDSAN」は「金龍山(浅草寺)」、
下から2番目の「TOEKOEDAWOERA」は「佃浦」となるそうです。
では、ここでクエスチョン。
一番上の「WOEJENO」はどの地名を表しているでしょう?
正解は・・・・・
「上野」
いや、読めるかい!
ちなみに、真ん中の「TAMEIKE」は「溜池」とのこと。
そこは普通なんかい!