今年2023年は、木米(もくべい)の没後190年の節目の年。
それを記念して、現在、サントリー美術館では、
木米の大規模回顧展、“没後190年 木米”が開催されています。
(注:展示室内の写真撮影は、特別に許可を得ております。)
展覧会のキャッチコピーは、
『木米がもう、頭から離れない。』。
どこかジャパニーズホラーのようですが、
木米とは、決して人智を越えた存在ではなく、
江戸時代後期の京都を代表する陶工の名前です。
写真手前の田能村竹田の《木米喫茶図》に描かれているのが、木米その人。
永樂保全、仁阿弥道八と並んで、京焼の幕末三名人とされています。
なお、生まれは京都祇園のお茶屋「木屋」で、俗称が「八十八」だったとのこと。
木屋の「木」と、八十八を縮めた「米」を合わせて「木米」というわけです。
展覧会には、そんな木米が作陶したやきものの数々が日本各地から大集結!
とても一人が作ったとは思えないほど、
さまざまなバリエーションのやきものがありました。
中でも見逃せないのが、《染付龍濤文提重》。
重要文化財にも指定されている木米の代表作の一つです。
中国の伝統的な木製の堤重を、あえてやきもので、
しかも、明代の古染付スタイルで制作してみたという作品です。
重箱の取っ手の部分や、縁のあちこちに、茶色く欠けた部分があります。
これは、決して作品の保存状態が悪かったわけではなく、
古染付のこうしたダメージを「虫喰い」として愛でる日本の茶人文化にあわせて、
木米が意図的に、「虫食い」を作り出したものと考えられているのだとか。
名前はシンプルながら、遊び心は満載。
それが、木米です。
ちなみに。
会場の一部に、こんなフォトスポットがありました。
こちらは、木米の《白泥蘭亭曲水四十三賢図一文字炉》を巨大化させたもの。
展覧会には、《白泥蘭亭曲水四十三賢図一文字炉》以外にも、
同じような形状をした見慣れないタイプの道具が多々出展されていました。
これらは、「涼炉」や「風炉」と呼ばれる煎茶道特有の道具、
ざっくり言ってしまえば、お湯をわかすためのコンロのようなものです。
木米が活躍した時代、煎茶道が流行していたそうで、
木米は涼炉や風炉だけでなく、急須の名品も多く残しています
ちなみに。
「識字陶工」との異名を持つ木米。
展示されていた急須の中には、
全面に文字がビッシリと書かれていたものも。
どことなく耳なし芳一を彷彿とさせるものがあります。
もしくは、字の色が色だけに、
血文字の脅迫文を彷彿とさせるものがありました。
また、陶工として活躍する一方で、
木米は50歳を過ぎてから、絵画も多く制作したそう。
展覧会のラストでは、重要文化財を含む、
それら木米の絵画も一挙に展示されています。
さまざまなタイプのやきものに。
山水を描いた晩年の文人画に。
木米が多彩な人物であったことは十二分に伝わってきましたが、
個人的には、『木米がもう、頭から離れない。』ほどではなかったような。
ただ、作品自体はそこまでインパクトが無かったものの、
木米が友人の田能村竹田に残した遺言は、相当なインパクトがありました。
「これまでに集めた各地の陶土をこね合わせ、
その中に私の亡骸を入れて窯で焼き、山中に埋めて欲しい。
長い年月の後、私を理解してくれる者が、それを掘り起こしてくれるのを待つ」
発想がジャパニーズホラー。