現在、板橋区立美術館で開催されているのは、
“椿椿山展 軽妙淡麗な色彩と筆あと”という展覧会。
江戸時代後期の文人画家、椿椿山の、
実に約30年ぶりとなる、関東では初となる回顧展です。
(注:展示室内の写真撮影は、特別に許可を得ております。)
「椿椿山」という名前を初めて目にして、、
「つばきつばきやま」と読んでしまった方もいらっしゃることでしょう。
正しくは、「つばき・ちんざん」と読みます。
椿山は、父の跡を継ぎ、幕府の下級役人を勤めながら、
絵師の金子金陵、谷文晁、そして、生涯の師と仰ぐ、渡辺崋山に学びました。
そのせいで・・・と言いましょうか、椿山はこれまで、
“崋山の弟子”として、崋山のバーター(?)で紹介されることが多かったそうです。
こちらの肖像画に描かれているのが、今回の主役である椿椿山。
性格は、いたって真面目。
酒もやらず、タバコもやらず、女遊びもせず。
しかし、特技や趣味は多く、
剣術や砲術、兵法などの武術に優れ、
煎茶、俳諧に和歌をたしなみ、夜には笙を吹いていたのだとか。
また、絵だけでなく、学問や兵学も教えていたようで、
30年で椿山が教えた弟子の数は、なんとのべ373人もいるようです。
教育者としても優れていた椿山ですが、
プレーヤーとしても実力と人気を兼ね備えていたようで。
こちらの《玉堂富貴・遊蝶・藻魚図》は・・・・・
明石藩の7代藩主・松平斉韶より、
オーダーを受けたものであることが判明しています。
なお、この松平斉韶なる藩主は、
のちに、椿椿山に弟子入りまでしているのだそう。
江戸のフリーランス絵師である椿椿山が、
いかに特異な存在であったかがよくわかるエピソードです。
そうそう、オーダーと言えば、
板美の江戸絵画コレクションの中でも人気の《君子長命図》に関しても。
この作品と同じ構図の絵が、椿山の手控や、
オーダーの見本帳と考えられる冊子にも掲載されていることが判明したのだそうです。
とはいえ、手控や見本帳とは違って、
実際の作品には、筍や太湖石といった、
おめでたいモチーフが、プラスされているのだとか。
さらに、猫のお尻の穴も描き加えられていました。
肛門=黄門(=中納言の唐名とのこと)。
立身出世を表しているのかもしれませんね。
ちなみに。
椿山が直接教えたわけでなくとも、彼の絵は、
後世の画家に少なからず影響を与えていたようです。
当時の日本画としては珍しい、
輪郭線を用いないその独特なスタイルは・・・・・
のちの横山大観や下村観山の朦朧体を予感させるものがあります。
53歳という若さで、明治の世を待たずに亡くなってしまった椿山。
もし、あと10年20年長生きしていたら、
きっと、今よりも知名度の高い絵師になっていたことでしょう。
さて、そんな椿山が残した作品のうち、
実に5件が重要文化財に指定されています。
(4件は絵画として、1件は歴史資料として)
これは幕末の絵師としては、決して少なくない数です。
今回の大規模な椿椿山展では、
歴史の教科書でもお馴染みの《高野長英像》を含む・・・・・
4件の重要文化財が板美に集結!(注:ただし、途中展示替えあり)
現在、東近美に重要文化財が大集結していますが、
その陰に隠れて(?)、板美にも重要文化財が集まっています。
中でも特に見逃せないのが、《渡辺崋山像》。
いわゆる「蛮社の獄」で弾圧され、
蟄居した後に自刃した師である崋山を描いたものです。
本来は一周忌に合わせて描く予定でしたが、
崋山の死があまりにショックで、筆を取ることができず。
その数年後から、画稿に取り掛かるようになり・・・・・
結局のところ、十三回忌でようやく完成したそうです。
一見すると、一般的な肖像画のようですが、
描かれた崋山の右手にご注目くださいませ。
螺鈿を施された机の上に置かれ、
今にも画面から飛び出してきそうなリアリティがあります。
若干の貞子感(←?)。
十三回忌でこの絵を観たら、軽くホラーだったかもしれません。
さて、《渡辺崋山像》もインパクトが強かったですが、
インパクトという点では、《梅竹群雀図》も負けていませんでした。
パッと見は、椿山らしい軽妙で端麗な色彩の絵画。
しかし、近づいてよくよく観てみると・・・・・
おびただしい数の雀が描き込まれていました。
その数、約100羽とのこと。
1羽1羽の姿は可愛いのですが、
これだけ密集されると、軽く恐怖感を覚えます。
ちなみに。
この記事で紹介した作品のほとんどが、前期のみ(~4/2)の展示。
後期(4/4~)からは出展作品の大多数が入れ替わるとのこと。
日本美術ファンであれば、なるべく前後期ともに抑えておきたいところです。