現在、菊池寛実記念 智美術館では、
“河本五郎―反骨の陶芸”が開催されています。
こちらは、「反骨の陶芸家」と呼ばれた瀬戸の陶芸家、
河本五郎の、東京では没後初となる大規模な展覧会です。
(注:展示室内の写真撮影は、特別に許可を頂いております。)
東京での知名度はほとんどありませんが(←僕もこの展覧会を通じて初めて知りました)、
彼が活動した瀬戸を中心に、東海地区では知られた陶芸家とのこと。
鈴木青々、加藤舜陶と共に「瀬戸の三羽烏」と呼ばれていたそうです、
いうなれば、東海エリアのローカルタレントのような存在でしょうか。
そんな河本五郎のプロフィールを簡単に紹介しますと。
河本五郎は1919年に愛知県瀬戸市で製陶業を営む柴田家の次男に生まれました。
幼い頃より、やきものが身近にある生活を送り、
愛知県窯業学校卒業後に、京都国立陶磁器試験所意匠部へ入所。
その後、一時期は画家を目指すものの、
31歳の時に染付磁器で知られる河本礫亭に養子入りしました。
その頃制作していたのが、こちらの《青華緑葉繫茂意花瓶》です。
青地に白の水玉がビッシリ。
ここ最近のルイヴィトンと草間彌生のコラボアイテムを彷彿とさせるものがあります。
表面の紋様は、もちろんすべて手描き。
その作業量を考えるだけで、気が遠くなりそうです。
さて、河本礫亭に養子入りした頃は、
義父にならって、染付磁器を制作していたそうですが。
このままでは、「延長戦にしか過ぎない!」と、
一念発起し、磁器から一転、陶器で作品を制作するようになります。
その転向した直後の作品が、こちらの《陶飾鉢》。
とても、先ほど紹介した染付磁器を作った人と、
同じ人物の作品とは思えないほどのキャラ変ぶりです。
しかも、ただ素材を変えました、というだけではなく。
中央の絵は筆で描いたものではなく、
まず型を作ってその中に土を入れ、表面に付けたものとのこと。
さらに、縁についている小さな球にもご注目ください。
よく見ると、鈴カステラのようになっています。
つまり、これらも型を使って作られたもの。
陶土の特性を活かし、土でしかできないことを、
これでもかと前面に押し出した作品というわけです。
やきものの造形美は土の性質を抽出し象徴することにある。
そう考えた河本五郎は、「土を抽象する」制作を追求するようになります。
例えば、表面に大胆に切り込みを入れてみたり。
また例えば、土の量感を求めて塊から、くり抜いてみたり。
土という素材に徹底的にこだわり、
新たな土の表現を引き出し続けたのです。
と、そのまま、一生土を素材にし続けるのかと思いきや、
磁器の「頑固で人を寄せ付けないような、ストイックな魅力」に開眼し、
一周回って、再び染付や色絵の時期の作品を制作するようになります。
例えば、こちらの《色絵龍文花器》。
文様は、中国の伝統的な陶磁器を、
形状は、古代中国の青銅器をオマージュしたものだそうです。
実際の青銅器の形状と比べると端整ではなく、
むしろ、ゆがみやたわみが目立ちますが、これはあえての表現。
磁土の特性を誇張して表現したものです。
こちらの《赤絵の壺》は、陶器から磁器へ移行する頃の作品。
先ほどの《色絵龍文花器》は、
板状の磁土を組み合わせて作られていますが、
こちらの《赤絵の壺》は、ベースを型で陶器で作り、
その上から磁土を吹きつけ、さらにそこに絵付けしたものだそうです。
当然ですが、同じ型を使えば、同じ形を作ることができます。
こちらの《染付歌垣文四方壺》も、形は一緒です。
ちなみに。
表面にびっしり描かれている「歌垣」とは・・・・・
若い男女が特定の日時に多数集まり、飲んで食べて歌って踊って、
最終的には、コレぞという相手と男女の関係になるという古代日本のパリピな風習とのこと。
晩年近くの河本五郎は、この歌垣文をやたらと気に入っていたようで、
展覧会のラストのほうでは、歌垣文の作品が多数出展されていました。
河本先生何やってんすか。
作品も本人自身も、こんなにもキャラが立った陶芸家がいただなんて!
正直なところ、ノーマークの展覧会だったので、
もしスルーしていたら、一生河本五郎を知らないままだったことでしょう。
危ないところでした。