現在、川崎市岡本太郎美術館では、
“顕神の夢 ―幻視の表現者―”が開催されています。
出展作家は、約50名。
そのメンバーの中には、大正時代に活躍した夭折の洋画家・村山槐多、
村山槐多《裸婦》 1915-16年 町立久万美術館蔵
「孤高の画家」「蠟燭の画家」として知られる髙島野十郎、
髙島野十郎《蠟燭》 戦後期 久留米市美術館蔵
2015年に25歳という若さで夭逝した画家で、
今、国内外でもっとも注目を集めている中園孔二、
中園孔二《無題》 2014年 個人蔵
©Koji Nakazono, Nakazono Family Courtesy of Tomio Koyama Galler
そして、もちろん岡本太郎の作品も含まれています。
岡本太郎《渾沌》 1962年 川崎市岡本太郎美術館蔵
他にも、草間彌生さんや横尾忠則さんといった、
現代アート界のトップランナーたちの絵画作品もあれば、
円空の仏像や、萬鉄五郎の洋画、橋本平八の彫刻もありました。
さらには、“20世紀最大の霊能者”出口王仁三郎の書や、
『銀河鉄道の夜』や『セロ弾きのゴーシュ』でお馴染みの宮沢賢治による絵画も。
一見すると、メンバーのチョイスがカオスなように思えます。
しかし、彼らにはある共通点があるのです。
それは、彼らが“人間を超越した『何か』”を感知し、表現しているということ。
会場冒頭のキャプションには、こうありました。
非合理的で直接的な経験が表現者にとって、
かけがえのないモチベーションとなり得ることは確かです。
それはある種の宗教的な体験に似ていますが、
宗教以前のものであり、宗教のもととなる出来事とも解釈できます。
・・・・・うーん。わかるようなわからないような。
さらに、ステートメントは続きます。
表現者たちは、訪れたヴィジョンをたよりに、
自己を超えた名状し難い「何か」を捉えるべく身を焦がす思いで制作します。
「何か」へのあこがれや思慕は、漠とした信仰心の発露ともいえます。
しかし、描けば描くほど、作れば作るほど、
その「何か」は、表現者の手からすり抜け別のものとなり替わってしまいます。
ちょっと何言ってるかわからなくなってきました・・・。
そのため、彼らは向こうから「何か」がやってくるのを待つしかありません。
本展ではこのような心情を仮に「顕神の夢」と名付けてみました。
ただでさえ、よくわからないのに、
「顕神の夢」というわからない言葉が、
仮に付けられてしまって、もうお手上げ状態です。
ただ、それも含めて、展覧会全体に漂うこのカルト的な感じ、
これまでに何度か体験したことがあるような・・・と思っていたら。
やはり、今展を企画した学芸員さんの中に、
“スサノヲの到来”や“諸星大二郎展”を企画した方がいらっしゃいました。
内容は違うはずなのに、映画を観れば一発で、
誰が監督・脚本をやっているかわかってしまう人っていますが。
(クエンティン・タランティーノとか、リュック・ベッソンとか)
この展覧会が、まさにそれ。
“スサノヲの到来”や“諸星大二郎展”と、
世界観、空気感が完全に一致していました。
個人的には、これらの展覧会に共通する不穏な感じ、ゾワゾワする感じは嫌いじゃないです。
ただ、毎年だと、ちょっとキツいので、
これからも、2、3年に一度のペースでお願いします。
ちなみに。
どの出展作品もゾワゾワするものがありましたが、
一番ゾワゾワきたのは、船越桂さんの弟、舟越直木さんの絵画でした。
舟越直木《マグダラのマリア》 2013年 個人蔵
決して、ホラーとして描かれたわけじゃないのでしょうが、
目に飛び込んできた瞬間に、思わず身体がすくんでしまいました。
きっと、本能的に恐怖や危険を感じてしまうものがあったのでしょう。
展覧会の言葉を借りるなら、描かれたこれ自体が、
“人間を超越した『何か』”といった印象を受けました。
それから、もう一点印象に残ったのが、古賀春江の《サーカスの景》です。
古賀春江《サーカスの景》 1933年 神奈川県立近代美術館蔵 ©︎上野則宏 Photo by©︎Norihiro Ueno
人文字ならぬ虎文字。
『人』という字を表しているのでしょうか。
もしくは、三ツ矢サイダーのロゴマークか。
ついついそちらに目が向きますが、
左の、象の上に乗ってる虎もなかなかです。
このぶっとんだ設定は、常人には思いつきません。
やはり“人間を超越した『何か』”のなせる業。